人と関わるだけつらくなることがある。人は基本的にうまくやっている個体が多いしそれぞれにいちいち比較してしまうから仕方ない。

優しい本心から出ていると直感してももうざったくて仕方ない言葉がある。
それは俺が全部無駄にしてしまうからであったり、別にあんたは責任をもって発してないし本心が実は利己的よね、とか、人の話聞いてた?とかもある。
そんな思慮の足らない言葉だろうと暴言でなけりゃいいはずなのに、何がうざいと思わせるかというと言葉ではなくて受け取る側の問題である。
だからただただ相手を面倒だと感じてしまって申し訳なく思う。

気楽に行こうよと言われた。
気楽に行った結果どんどんクズに沈むことを肯定できるのか。
悩んでるだけ偉いと言われた。
悩んでいればそれで食えるのか。

相手は上記のように”それっぽい”考え方を提示してきて、どれか一つヒットすりゃいいやってことなんだろうが、話半分で聞けるほどこちらは余裕がない。
本筋がうまくいっている人のつらいとは違うでしょうに、と思う。

俺はまあ前向きなつらさなわけだ。普段うまくいってる人は突発的部分的なつらさを拡大して表現するが、俺は全体がつらくて、安定しているかわりに良くも悪くもならない。
別サイト用に前向きにつらい人向けのテキストをちまちま書いている(未公開)。どこにも気楽になんて書いていない。気楽に行こうよという人こそ彼らの気楽を許してくれないからだ。
人にただ声をかけるという行為がやや身勝手さを持つことが存在する。人がつらいときに適当に当たるわけにはいかない。

今気づいたんだが一般的にSNSにおけるつらいというのはかまってくだちゃーいってことだな。
ちょっとそういうこと書いたら理屈で応じるでもなく意味不明を送りつけられて慰められたんだが、なんとも言えなかった。
それこそただ声をかけられただけだし。理屈の一切がない顔文字である意味鮮やかな解決法に見えたが、同時に残念ながらつらくなったのだ。
理屈も屁理屈も意味不明も自分のつらさの表明に対して向けられるということがすべて申し訳ない。
衣食住を今すぐ用意できますよ以外のコミュニケーションはいまや無駄とは言わないが傷を伴う。
だから俺はつらい誰かを養うという目標を持っている。